もうじき3歳

木蓮も新緑の葉がどんどん大きくなり、桜もほぼ完全に散り、もう間もなく
誕生日がやって来る。
奇跡の出会いから、もう3年にもなるのか。






生後8ヶ月でシングルマザーを勝ち取るべく決意を余儀なくされてから昨夏
6月まで、1日1日は本当に早いようにも感じられたが、その1年半は私に
とっては拷問のような日々でもあった。
いつまた理不尽な暴力と暴言を浴びせられるのか恐怖と屈辱の夜が毎日続き、
物音といびきで起こされれば朝まで眠れない。
スーザン・フォワード氏の著書でも支配〜侵略の被害者は生涯苦しむとされ
ているが、それを嫌と言うほど再認識させられた日々だった。
もうあの時代の私は居ない。
そう現実を捉えていても、心身はそのように成ってくれず、そうした己の
弱さとあの輩の影響に延々支配されている事実も屈辱以外の何物でもなかった。
勝利した日から間もなく9ヶ月を迎えるが、また別の形で恐怖をしばしば
体感する日々である。






「誰にも似なくていい!」
一般に魔の2歳児という表現があるようだが、イヤイヤ期真っ盛りのスフィ
ンクス君に対し、私は度々こうして怒ることがある。
気に入らないこと(食事やおやつの終わり際に「おかわりはもうお終いよ」
と伝える時や、電車DVDや動画の観過ぎを懸念して「今日はここまでね」と
PC電源を落とす時等)があるとそこらじゅうのものを投げ付け、私を叩き、
暴れ、泣き喚く。
この1週間では足も出るようになった。
1歳半〜3歳前後のお子さんを持つ世の中の多くのお母さんたちが、当然の
ように経験するイヤイヤ期の事象なのかもしれない。
が、私にとっては恐怖再び・・・という感覚に陥る瞬間である。
血族の血筋であっても、スフィンクス君の父親の血を引いても、いずれに
しろ暴力は振るうからだ。
日に日にエスカレートするイヤイヤ期の暴力行動を、ただイヤイヤ期として
見られなくなっている私が居る。
一度それが始まると、動悸やめまいが起きるのはもちろんのこと、「ああ、
結局誰からでも暴力は振るわれるのだな」と痛感してしまう。
本当に悲しいけれど、どちらの血筋も引いているのだなと痛感してしまう。
人と人との縁が、決して血だけでつながっているものではないと知って居ても、
それでもどうしても悲しく恐怖を感じてしまうのである。
正にこれが屈辱的なのだが、体感と心情(怯えと不安そして悔しさ、それに伴う
体調不良)があの頃と完全にオーバーラップし、認めたくないがPTSDを軽く
ぶり返していると認識せざるを得ないのだ。
「どうか誰にも似ないで。」
そう渇望しながら、時に本気で怒りながら、嵐が止むのを待つしかない・・・






スフィンクス君がお腹に来てくれた時、先ず思ったのは「どうか女の子じゃ
ありませんように」。
万が一、私と同様の地獄を経験させるようなことになったらと恐怖した。
数ヶ月後の検診で「たぶん女の子でしょう」と主治医に言われた際の絶望と
恐怖は記憶に新しい。
万が一のことがある時に、私は竦んだりせずにしっかりと大切な子を守り
きれるだろうかと度々泣かずにはいられなかった。
でも登場した子は綺麗な綺麗な男の子。
生まれる前から己を守り、同時に情け無い程に弱い私の恐怖までをも取り
去ってくれるほどの術を、こんなにも自然に持ち合わせて居てくれる子だった。
わざわざこんな私を選び降りて来てくれた子に対し改めて、感謝と言う言葉
では言い表せない程に感謝した。
だからこそ、惰性でなく信念としてシングルマザーを勝ち取らねば成らぬと
決意〜実行できたと思う。






ここに来て、こういう形で恐怖を体感するとは夢にも思わなかった。
が、この子に対し、私は私であの輩のような振る舞いはしてはならない。
絶対に毒されていてはいけないのだ。
暴力はいけないこと。
誰にも似なくていいのだということ。
動悸がしようが偏頭痛やめまいが起きようが、これだけは心をこめて伝え
続けなければならない。
憎まれるのも嫌われるのも慣れているのだから、暴力を振るわれる恐怖にも
いい加減もう慣れれば済むことなのだから、伝えるべき事は伝えよう。
悲しさを鎮めて苛立ちも鎮めて恐怖心を消して。
「ママ」「おかあさん」と私を呼び、受け止めてくれているのは、スフィン
クス君の方なのだから。
いつも全身全霊の濁り無い笑顔を向けて走って来てくれるのは、この子だけ
なのだから。






明日は長い1日だ。
静かに持ち堪えよう。