今在る場所で

東日本大震災から昨日で1年が経った。
時間の流れの速度はいつもの速さとそう変わらない。(個人的には)
でも早いことに変わりはない。
1日は長いのに全体の流れを思うと早い。
そんな感じだろうか・・・




スフィンクスくんの保育園入園が確定して、色々と準備をしながらも
2人で過ごせる慌しくも楽しい時間が減るんだなと感じながら、いつもの
電車の揺れかなと最初は思った。
(うちは線路沿いなので、電車が近づく〜通る度に振動を感じるのだ)
でも電車が通ることは無く、揺れが長い上に大きくなった。
スフィンクスくんも固まっている。
慌てて抱きしめる。
そのうち写真立てが倒れ、香水の瓶が落ち、立てかけていた古いテーブルも
倒れた。
TVをつけるも直ぐバチンと飛んで、携帯も通じない・・・
(ニュースにもアクセスできない)
震度5弱。
それでも初めて体験する大きな揺れだった。
東北の皆さんに比べたら申し訳ないが、それでも恐いと感じた。
だからこそ逆に、被災地の皆さんの恐怖はどれだけのものだったか。
何が起きているのか、震源地がどこで津波があんなありえない様な大きさで
襲っていたのかを知ったのは、23時近かった。




あの日はどうしても区役所に行かなければならず、スフィンクスくんとベビーカーで
出掛けたが(徒歩で)、信号も点かず道路はパンク状態に近く、道路沿いのコンビニ
なども一時休業の張り紙。
ところどころガス漏れの匂い、コンクリートのひび割れ。
バスに長蛇の列、乗り切らずにたくさんの人が歩いている。
あんな光景すら初めてだったけれど、あの日の夜以降繰り返されし流れた映像は
あまりにも惨い現実だった。
自然には本当に当たり前だけれど抗えない・・・と。
今在ること自体、ただのラッキーでしかない。
いつ誰に起こってもおかしくない、自然の事象。




だから今在る場所で、本当に小さなことでしか無いけれども出来ることをやる。
この1年、震災直後から毎月収入の中から10%を募金している。
とあるコミュニティを通して、被災地の赤ちゃんへミルクと肌着を数回に分けて
送っている。
被災の為に家族がバラバラになってしまったお母さんやお子さんの心のケアに
ご縁を戴くこともある。
本当にこんな小さなことしかできない。




震災だろうが暴力だろうが、子供という存在を護りたい。
その思いは変わらない。
私の信念だ。
やらないよりは例え小さくてもマシだと言い聞かせながら、本当に小さなことでしか
無いけれど積み重ねる。
もちろん言うまでも無く、スフィンクスくんに対しても。





今回の震災で、人の弱さ愚かさとそれに相反する強さが露骨過ぎる程に露呈している。
あらゆる場所で。
被災孤児や一時避難している児童を「我が子を守る」という名目で苛める馬鹿以外の
何物でもない保護者。
他人事かと目を覆いたくなるような政府や東電の度重なる言動〜事実。
いつも傷みや悲しみを背負うのは、まっとうに現実を戦おうとする人ばかりだ。
偽善者ばかりのそんな世の中。
権力や名声を持つことがそんなに偉いのだろうか?
そんなもの、自然の力の前には何の役にも立たない。
どれだけ分かち合い(傷みや悲しみに添い)、行動できるかだと思う。




あの日は歩けなかったスフィンクスくんも、昨日は初めて歩道を歩いて散歩した。
どんな小さなことでも前進と感謝を積み重ね、喜びの事実に変えよう。
にこにこしながら楽しそうにテコテコ歩くスフィンクスくんの姿を見ていて、
改めてそう思った。




いつかは誰もが朽ち果てる。
その朽ち果て方なのだ。
せめて、せめてこの子にだけは誇れる何かを見せれる人にならねばならない。
その為にも現実から目を背けてはいけないのだ。
積み重ねる、今在る場所で。