代わりなんて在りえない。

皆様こんばんは、のわです。



今日、戦友のお父様の49日法要が無事に終わりました。
咽頭癌を宣告されたのが、昨年6月。
旅立たれたのが同年12月23日。
あっと言う間・・・



誰かが誰かの生まれ変わり。
そういう必然も、時にはあるのかもしれません。
でも、仮にそうであったとしても、誰かが誰かの‘代わり’と
なることは在りえないと私は感じます。



旅立った存在の生まれ変わりとして、また置き土産のようにして、新たな命が降りてくる。
こういう発想は私個人は好きではないし、したくありません。
だって、その‘個’を尊重できなくなるし、不要な重圧を与えかねない。
皆それぞれ、その人だけの必然があるのだから。



やはり昨年他界した芸術家のマイケル・ジャクソンが、ドキュメンタリー番組の中で見せてくれた子育てのシーン。
MJの芸術家としての偉大さは敢えて私などが書かずとも、世界中で知られている。
ただ、あのシーンのことだけは今夜、書いておきたい。



ラスベガスのホテルの廊下を元気に走るプリンスくん。
その後ろをMJとまだ小さいパリスちゃん(4歳くらい?に感じました)が歩いていました。
そこで「君も廊下を走る?」と尋ねた場面が映りました。
私はここでカルチャーショックを感じたのです。
「そんな小さなことですら、子の気持ちや‘個’に配慮し、尊重している」と。



「走っていいよ」とか「走ってごらん」じゃなくて「どうしたい?」と尋ねること。
もちろん善意でも「走っていいよ」とだけ言ってしまうのも自然な気がする。
元来の‘個’の可能性や才を見出し、引き出すための尊重であり配慮。
出来そうで、なかなか出来る事ではないように思う。



親子ってどうしても縦の力関係になりがち。
善くも悪くも。
これで過信し狂気に溺れた連中が、躾と横暴を履き違えて虐待行為に走るのだから。
でも、私は対等に向き合いたいし、年齢や生んだ側〜育てる側としての立場としてでなく、手を取り合って肩を組むように歩けたらいいなと・・・



MJの問いかけに対し、パリスちゃんは「お父さんと手をつなぎたい」と答え、MJは「OK」と静かに手を取ったのですが、子への敬意と感謝に満ちた声=OKであることがTV画面からズシンと伝わりました。
とっても美しいシーンで、焼きついている。



誰かが誰かの代わりにはならない。
生まれ変わりである必要も、置き土産的な存在である必要もない。
‘個’として尊重されるべきで、敬意を払うべきだと、今日は改めて感じた1日だった。



【追伸】
先月から度々、お誕生日祝いの気持ちを贈りそびれています。
変なタイミングで届くかもしれませんが、お許し下さいませm(−−)m