1つの結論

スフィンクスくんにとっては初めての経験。
ライブな音に触れに行くのは、私自身にとっては産後初。
7年前どうして想像できただろう・・・
‘この私’が、血のつながった可愛く偉大な坊やを膝に乗せ、古い友人の音を聴き受け止めるなんて。
記憶は異常なまでに鮮明で、まるでほんの数時間前のことのように思い出せる当時のこと。
でも確実に残酷にそして奇跡のように時は流れているのだ。
社会的に見れば私は完全な敗者と成り(ある側面から見れば、だが)、そして友人は・・・
いや、そんなことはどうでもいい。
今ここに在ることは残酷でも奇跡でもなく、ただ‘事実’なのだから。





今回ばかりはどうしても‘聴く必要があった’。
この前に聴いたのは既に5年は前だっただろうか・・・憶えていない。
記録されたものは聴いていないし、引かれる機会も惹かれることもなく過ぎていた。
ただ与えられた環境やある種の鍛錬とも言える日々の中で、深部から渇望する種の僅かな音を僅かな時間で楽しんで来た。
私が求めるものは、灯りなのだ。
木漏れ日であったり、満月あるいは三日月であったり、清冽とした強さのある灯りを含んだ音や声なのだ。
そこに日々色を変え温度を変え風向きを変えながら吹く、柔らかで自由な風があれば、それで充分だった。





先入観や期待を振り払い、そこに座る。
子供とは本当に素直且つ凄い感性であり、一瞬にしてその空気を読取る。
スフィンクスくんらしいと言えば、らしいのだが。
心の軸をクリアにし、目を閉じ集中する。
気付くと多くの聴衆と共に、スフィンクスくんも友人らに敬意を払い拍手で迎えている!
すごい。
演奏家が現れたら拍手するのがマナーだなんて、一切教えていないのに!
(こんな母としての感動に、一瞬つい集中力が途切れるもスフィンクスくんにつられ、再度軸をクリアに)






「嘘だ」
「何で」
そう感じさせられた瞬間、涙でぼやけ瞬時に場が見えなくなった。
耳に突きつけられるそれは、あの当時と比較にならぬ程の飢えと濁りを帯びていた。
残る我(生命力と言ってもいい)の主張は、こんなにも想像を超えていた。
別物だった。
幸せと成っているはずだった。
光を放っているはずではなかったのか。
何故。
そしてフレーズが進むごとに生気を失い、突きつけられるそれには我も影すらも見えなくなった。
友人が居ない。
必死で追うも、居なかった。
部分的に綺麗めに整っているように聴こえる音が時々顔を覗かせるが、体温が無い。
居ない。
音が全く生きていない。
主張でもない。
表現でもない。
何なのだろうか・・・。
右肩が傷む。
右足の付け根〜腰には違和感。
そして致命的に鈍り、痛む背中の左側。
痛みがあるということは、肉体は当然生きている。
でも居ない。
歌わなくなったのね





3曲目を過ぎたところで、スフィンクスくんの集中力が途切れてロビーへ。
終盤まで過ごす。
1番最後の曲だっただろうか。
冒頭で感じた、濁りと飢えで絶叫しているように鳴り響いた音が、再び私の耳に。
それでも「ああ、居た。居てくれた。」と安堵する。
そんな形ででも我(生命力)を解放してくれた方がいい。
居ないより、どうか居て。





1つの結論を得る為に、どうしても聴き受け止めなければならなかった音。
私が得たもの。実感したもの。
それはノワールドに関する和解への幻想でもなく、逆に敗北感でもなく、ただ友人に「居てくれればいい」という結論。
それが何処の世界であってもいい。
居なくなるより、せめて音の中で息をして‘居てさえくれれば’いい。
何に向けての恐れなのか、少しの憎悪も含まれているのか判らない。
ノワールドのことも、この際完全に忘れてくれても構わない。
いや、とうに記憶の彼方か消えているのか・・・
私はもちろん憶えている。
敬意と感謝の為にも、今後どんな形と成ろうとも、きちんと憶えているから。
せめて居てくれれば・・・体温をキープして。





そういう願いであり、結論。
私が望まぬ、行くことの無い場所。
行けない場所。
分かち合えぬ感性。
でも何年経とうとも、事実は消えない。
だから感謝する。
「完成したら乾杯しよう」
この約束は当時の幻聴いや妄想だったのかもしれない。
いずれにしても、もう届くことはないのだから。
ただ、私の人生に添い、それを美しい土壌に変えてくれたこと。
作曲家として真摯に向き合い、そういう土壌と夜明けを示してくれたこと。
この事実だけは残る。
少なくとも私の記憶と人生においては、そうした形で残る。
それが抗えない現実であり、重要な事実であり、結論だ。