血筋への恐怖と責務

我が子。
施設に預けないといけないのだろうか。





この数年、計3名の児童精神医と関わり、うち2名の名医が
「性格だから障害でも病気でもない。」
「体感や視覚で入った恐怖体験の悪影響が濃い。」=つまりPTSDであると。
もう1人(後出の保育園指示による診察先)は「ADHD自閉症」。





1歳手前で、泥酔した父親にベビーカーごと倒された記憶。
分厚い本をぶん投げられた記憶。
これを一昨年だったか「何で投げたの?何で倒したの?」と突然言い出した。
驚愕と共に‘間に合わなかった’と感じた。
マイナスの影響や記憶を残させぬよう、ぎりぎりのところで何とか急いで勝ち取ったはずだったスフィンクスくんの父親との離婚。
でも現実は間に合っていなかった。
生後8ヶ月のあの悪夢。
その瞬間に離婚を絶対に勝ち取ると決めた。
私自身に身寄りも逃げ場もなく、先方に出された「2歳の誕生日までは一緒に」という気の遠くなる長さの条件に応じざるを得ない現実を突きつけられ、生き地獄のような惨めな日々が続いた。
ぎりぎりのところで安堵と安全が得られるはずだったのに、私だけでなく、我が子にも負の影響が今も深く残っている現実。
信頼できる専門医や心理士のサポートの下、試行錯誤と実践を繰り返す日々。




昨春ごろ鎮静が感じられた矢先に、保育園の女性担任から顔をつねられる・・・
という件があり、再び振り出しに戻った。
物を叩く〜ぶん投げる、普通に何かを注意しても寧ろエスカレートする、危険を顧みずに落ち着き無く飛び出す。
いずれも執拗である。
(頑固で一途な性格とも言え、執念深く他や危険な現実を理解しようとしない特性ちも言える。)
怒鳴りつけて泣かすまで、これらのことを止めない。
ぶん投げに関しては「お父さんもやった!」と逆ギレする。
当然だ。
大人の悪影響はある意味で説得力を持ってしまうからだ。
私側の血縁の血筋を引けば、ある方面に対する異常と、他者への直接的な暴力行動に体現されるであろうが、その症状は今のところ出ていない。
完全にスフィンクス父の血筋からのものだ。
ゆえに母である私としても、ADHDというよりはPTSD+性格だと捉えている。




一昨日また保育園の教室を飛び出そうとし、担任の先生が阻止しようとしたところ、例により逆ギレ。
教室のドアを叩き、それが室内に倒れ、お友達に怪我させる寸前だった。
過ちへの自己内省が出来ず、逆ギレも父親譲りである。




「あなたの手(足)が悪いことをしたら、お母さんはあなたの手(足)を叩くよ。」
最後の、最もしたくない手段であり、約束。
怒らねばならぬ時、今回のように叩かねばいけない時、私は自分の血縁と同類の下等な人種に成り下がったように感じ、これ以上無い情けなさと失望を実感する。




言葉での注意は、台詞(復唱)としてしか覚えない子。
視覚と体感で伝える術しかない。
どうして泣くまで怒鳴りつけないといけないのか。
どうしてそこまでしないと執拗に悪いことを続けるのか。
これは良い時も悪い時も、全ての事柄に言える。
その度に怒ったり教えたり色々しても、数日経てば約束破りで同じことの繰り返しで手に負えない。
泣いて謝ってもその場だけで、また物をぶん投げたり教室や道路に飛び出したり。





保育園はここぞとばかりに障害児カテゴリに入れようとするし絶望しか無い。
そもそも鎮静傾向にあったのを再度悪化へ追いやったのは昨年度の下等な担任であるが、完全にしらばっくれで挙句に障害児カテゴリに入れるとは何様のつもりなのか。
離婚を勝ち取って以後、真摯に積み重ねて来たPTSD回復への実践を全て台無しにされた。




大人になる前にお友達を怪我させそうで怖い。
間接的にであっても。
自分が好き勝手して痛い思いするのは自業自得、誰かを巻き込むのは人として駄目。
頭を抱えている。




本人以外を傷つけたり怪我させなければ。
お友達への直接の暴力はゼロだ。
眼球をパンチしたり唾を顔に吐きかけたり砂を投げるような子も居るが、それは無い。
「グローブしていない人のお手手は優しいお手手!」と、私との約束を守ってくれている。
でも間接的に流れ弾に当てるような行動が怖くて心臓が縮む。
ドアが倒れるほどの力で叩くなんて・・・
大きな音がしただろう。
近くにお友達が居たら、確実に怪我をさせていた。
私は自分自身もスフィンクスくんにも「自分さえよければいい」という概念は無い。そういう人間は大嫌いであり、軽蔑するし、許さない。




母である私が24時間つきっきりではないわけだから、その間に誰かを怪我させてしまう=謝れば済む問題ではない。
一般の保育園でこうして同様のことばかりが起きる(我が子だけじゃないところが保育園の質の悪さ)わけなので、仕事をする間は専門家のいる施設に隔離してもらい、誰にも怪我させぬようにして、他の時間は私が看視する・・・という方向を考えないといけないだろうか。





事件・事故・天災、全ての人に可能性は開かれているし、善悪共に物事は必然的に生じるとも常々感じる。
だからこそ、それを起して当然〜子供だからお互い様というような思想には成りたくない。
そういう傲慢な子で在って欲しくない。
誰にも似ないで欲しい。
そう成る事は許さない。
これが私の思う‘母としての責務’。 




同じクラスの母親たちの一部は、「自分の子さえよければOK」な浅はかな人々。
1人、障害児のお子さんが居るが、何かある度にその障害児さんのせいにして「あの子が居るから」と下らない噂を流したり、子供にいじめさせたりと、本当に稚拙。
私はそういうバカ親子に成りたくない。
我が子も障害児さんも、そうした扱いを受けることは許せない。
そうは言っても身勝手な行動で怪我をさせそうな要素があるのも現実。
それぞれを別々に捉えて阻止し双方の安全を多くの意味で保ちたい。
それが私のとるべき責任の形。
子供同士の喧嘩で怪我をすることはある・・・という助言もあるが、何かあれば謝れば良いというのは甘いと考えている。
(謝罪して済まないこともある。
それは私自身の経験からも、我が子の現状に残る悪影響からも痛感している。)
やったもん勝ちという思想は最初から断ち切らせないと駄目。
味しめて調子づいたら終わり。





傷つけられるような現実から守りたい。
それと同じくらい、誰かを例え間接的にでも傷つけるような人に成って欲しくない。
頼むから誰にも似ないで。
誰にも。





昨夜は久しぶりに飛び降り自殺目撃の記憶がフラッシュバックし、一睡もできなかった。
親子の無理心中のニュースも度々見るが、大概は親は死に切れず生き残る。
私にとっては、自殺=飛び降りだから、私はそういうことは無いだろうが。